青豆裕子ってどんな人?


1964年11月28日 岐阜県飛騨市生まれ
上向きの鼻がトレードマークな健康的な赤ちゃんとして誕生。
趣味はカラオケで、十八番は『ハクション大魔王』と葛城ユキの『ボヘミアン』というかなりの三枚目路線。
幼稚園時代はウルトラマンタロウになることが夢で、将来は強くなって地球を救いたいと思っていました。
実は「タロウ」という意味が、ウルトラマンの光の国では「勇気を持ち正義を愛する者」だということを大人になって知り、人を救いたいという今の自分の想いと重なりました。
小学生になり母親を毎日のようにマッサージしていると、いつのまにか気持ちよくて眠ってしまう母の姿を見て、もっと身体を楽にしてあげたいと思うようになりました。
頭の先から足までくまなく触れて、疲れている母の身体に効くツボを覚えていきました。目を閉じていても、どこが楽になる箇所なのかが判るくらい、毎日のように母の身体を揉んであげました。
この経験が、のちの私の原点となりました。


25歳のとき、離婚をきっかけにシングルマザーとして生計を立てるため、化粧品メーカーの販売職に就きました。
これが、美容の世界への第一歩でした。
翌年の26歳で、美容の総合商社に入社し、以降11年間にわたり、全国47都道府県で営業・販売・講師・スタッフ育成・司会など、幅広い業務に携わりました。休む間もなく働き続けたこの時期は、子育てと仕事の両立がもっとも苦しかった時期でもあります。
小学生だった子ども二人を家に残して出張に出る日々。子どもが熱を出しても看病に戻れず、学校行事にも参加してあげられない……。それでも、「子どもたちが自分の道を選び、進めるように」との一心で、がむしゃらに働き、必死にお金を貯めました。
しかし、長女の大学卒業が間近に迫ったころ、投資詐欺とマンション販売詐欺に立て続けに遭ってしまいました。数千万円という大きな損失を抱え、購入したマンションは詐欺物件だったことが発覚。競売にかけられ、即座に退去を求められました。
長男夫婦に家財道具をすべて譲り渡し、当時9歳だった次男とともに、最低限の持ち物だけで新たな生活を始めました。カーテンもなく、箸すらない部屋で、ダンボールをテーブル代わりに使う日々。人生が音を立てて崩れていくような絶望の中でも、次男がそばにいてくれたことが、私の支えでした。
それでも、これまでの経験や美容に対する知識を活かし、美容メーカーのプロデュースや新規事業の立ち上げに関わるコンサルティングなどを受け持ちながら、必死に生計を立て直しました。
そして、無一文からの再起からわずか3年後の2011年(平成23年)、念願だった自分の会社、株式会社Star’Q(スターク)を設立いたしました。
その後は、テレビ通販番組に2年間ゲスト出演させていただくなど、多くの方々との出会いや経験を通して、さらに学びを深めることができました。

2014年(平成26年)には、自分の中で本当にやりたいことが明確になり、健康と美容を融合させた「第3のエステ」 深部リカバリー® を開発いたしました。
2018年(平成30年)には、仙骨へのケアに特化した仙骨リバース®対応の機器を開発し、実用新案も取得。同年にはアジアゴールデンスターアワード2018にてマスター大賞を受賞し、長男とともにレッドカーペットを歩くという夢のような経験もさせていただきました。
しかしその一方で、同じ年の2018年には、機器の製造を依頼していたメーカーによってコピー商品を作られてしまい、1,000万円以上の大きな損害を受けるという苦い経験もいたしました。
さらに、2022年には、別の製造メーカーからの心ない対応により、約2,000万円もの損失を被ることとなりました。
それでも、支えてくださるお客様や仲間の存在、そして自分を信じる気持ちを力に変えて、歩みを止めることなく進んでまいりました。
2023年(令和5年)には、眼精疲労や耳鳴り、首や肩のこりといった、現代病ともいえる悩みに着目し、洋服を脱がずに受けられる脳内エステを開発いたしました。
2024年11月に還暦を迎え、これまでの歩みを振り返りつつ、新たな挑戦へと心を新たにしました。
そして2025年3月には、これまでの経験と想いの集大成として、新次元の神経アプローチ機器Physical’Q MAX(フィジカルキューマックス)を発売いたしました。
その後、2025年5月に長年支えてくれた母が他界しました。母への感謝と深い想いを胸に、人に笑顔と癒しを届けたいという願いがさらに強くなっています。
子どもの頃に始まった“癒す”という行為が、今もなお私の原動力であり、使命であることを再確認する機会となりました。
また、57歳で初めて挑戦したゴルフも、あきらめかけていた夢を叶える大きな出来事となりました。電気施術のおかげで足の不自由を克服し、新たな一歩を踏み出すことができたのです。
あらためて、「あきらめなければ道は開ける」ということを実感しています。